孟嘗君と食客三千

 中国の戦国時代は大国の晋が韓・魏・趙の3つの国に分裂した紀元前403年から秦の始皇帝による天下統一の紀元前221年まで約200年続いた。天下の覇権を巡って七雄が熾烈な戦いを繰り広げたのだ。ただ、面白いことに、各国は国境を封鎖し、絶えず総力戦で戦いに挑んだ訳ではない。有能な人材は方々から招聘され、宰相に任命され、経済政策や軍事力強化策を次々と実行したのである。戦国時代はブロック化というよりは、国際化が一層進展した時代だった。諸子百家が活躍できた自由闊達な時代であったのだ。今の腐敗し停滞した中国とは随分違う。
 そんな時代に活躍し、現在でも愛されている面白い人物がいる。孟嘗君(もうしょうくん)である。彼は賓客や士(知識人)をもてなすのが好きで、斉(せい)のために楚と魏の攻撃を防いだのだった。それが理由で、司馬遷は孟嘗君の記録を歴史に残そうと決心したのである。
 孟嘗君は死後の名前であるが、生前は田文(でんぶん)と呼ばれていた。父は靖郭君田嬰(せいかくくんでんえい)で、斉の宰相まで登りつめ、薛(せつ)の領地をたまわった人物である。
田嬰の男子は40数人いたが、身分の低い妾が5月5日に子を産んだ。文と名づけられた。後の孟嘗君である。5月5日に生まれた子は成人して親に危害を加える、と当時信じられていたため、田嬰はその母親に棄てるように命じた。だが、母親はこっそり育て上げた。周りのものに告げ口されないようにするために、相当の苦労をしたことであろう。ばれれば親子は殺されていたに違いない。
 文が大きくなると、母親はその子を田嬰に会わせた。もちろん田嬰は怒って、母親を責めた。
「棄てるように言ったではないか。どうして、生かしておいた」
 文は頭を地につけて、言った。
「父上が五月の子を生かすなと言われるのはどうしてでしょうか」
 田嬰「五月生まれの子はせいが門よりも高くなると、親に害を与えるようになるからだ」。
 田文「ひとの運命は天から授かるものでしょうか、それとも門の戸から授かるものですか」。田嬰は沈黙した。
 田文は言った。
「運命が天から授かるのなら、心配は要りません。もし、運命が門の戸から授かるのであれば、門をうんと高くすればいいでしょう」
 田嬰はうまく返答ができず、さがれと言った。田文は賢い子供に成長していた。それだけではない、母親は父親に告げ口されないよう慎重にその子を育てたため、田文も他人に心遣いができるひとに成長していた。
 ある時、田文は田嬰に言った。
「父上は宰相になられましたが、賢者はひとりもいません。士は粗末な上着も着られず、食事もろくなものを食べられぬありさまです。国の政治もしだいに勢いを失っていくでしょう」
 田嬰はわが子の発言に感心して、賢人を他国から集めるために客人を接待することにした。客人は人数が増え、名声は諸侯に知れ渡った。田嬰は頭角を現しつつあった田文を跡継ぎの薛(せつ)公にした。孟嘗君の誕生である。
 孟嘗君は、財産を投げ出して、身分を問わず、諸侯の賓客、罪を得て亡命した者、スパイ、泥棒、ただ飯食いなどを差別せずに接待した。食客は数千人にもなった。彼は客のよりごのみをせず、誰でも手あつくもてなしたので、誰もが自分だけが大切にされていると思い込んでいた。孟嘗君は客人をよく遇する賢人だという噂が戦国の世に広まった。
 秦の昭王(しょうおう)が孟嘗君を宰相として招こうとして、実の弟を人質として斉に送り込んできた。客人のひとりは、秦は虎や狼のような信用のならない国です、と忠告したが、結局秦に派遣されることになった。
 ところが、秦に到着すると、孟嘗君の政治改革により既得権を失うと恐れた昭王の側近が昭王に告げ口をした。
「孟嘗君は斉の国のひとですから斉の利益を第一に考え、秦の利益は後回しにすることでしょう。孟嘗君は賢く、敵にまわすと厄介です。いっそのこと斉に返さずに殺してしまった方が得策ですぞ」
 昭王も同意した。
 孟嘗君は食客のなかの諜報員からこれらの情報を得ていた。孟嘗君は監禁された。いつ殺されるかわかったものではない。危機一髪である。
「昭王の意思を変えることができるのは、昭王の寵愛する姫だけでしょう」
 秦の内情に詳しい客人は孟嘗君にそう言った。はたして、その姫のところにひとを送り、とりなしを乞うと、狐の白い毛皮の外套が欲しいと要求された。孟嘗君は千金の価値がある狐の白い毛皮の外套をすでに昭王に献上し、持ち合わせがなかった。困り果てていると、幸いにも、盗みの得意な男がへりくだって言った。
「私がその狐の白い皮ごろもを取ってまいります」
 彼は夜にまぎれて犬のまねをして秦の宮中の倉庫に忍び込み、献上してあった狐の外套を取ってきて、姫に贈った。姫は昭王をうまく説得し、孟嘗君は保釈された。この泥棒は「狗盗」と呼ばれている。
 孟嘗君一行は大急ぎで秦を脱出しようとして、その場を立ち去った。夜半になって函谷関(かんこくかん)に到着した。この関を超えれば外国である。だが、鶏が鳴くまで関所は開かないことになっていた。一方、秦の昭王は孟嘗君を許したことを後悔し、追っ手を遣わした。再び、危機一髪である。ところが、客分の末席に、鶏の鳴き声が得意な者がいた。彼が鶏の鳴き声の真似をすると、関門は開かれ、孟嘗君は外に出ることができた。追っ手はすぐそこまで来ていた。声帯模写の名人は「鶏鳴」と呼ばれる。これらのふたつのエピソードを合わせて、「鶏鳴狗盗」と呼ぶ。泥棒や一芸に優れた者まで大切にもてなした孟嘗君の度量の大きさを褒め称えている。
 孟嘗君のお話はこれで終わらない。
 ある日、みすぼらしい身なりの馮歓(ふうかん)という乞食がやってきた。孟嘗君は上等の客には「代舎」、中等の客には「幸舎」、普通の客のためには「伝舎」を用意していた。馮歓は「伝舎」に案内された。すると彼は、「帰ろうじゃないか。ここじゃ魚も食えない」と大声で歌っていると宿舎の主任が孟嘗君に報告しに来た。孟嘗君は少し考えて、馮歓を「幸舎」に移すように命じた。今度は、「帰ろうじゃないか。ここはクルマがない」と歌い始めた。仕方なく、孟嘗君は彼を最上級の「代舎」に引っ越させた。
 馮歓の要求はやまなかった。
「帰ろうじゃないか。ここじゃ一家のあるじになれやしない」
 孟嘗君は眉をひそめた。馮歓は食うや、飲むやのぜいたくな生活を送った。1年が過ぎたが、馮歓は孟嘗君に役に立つことを何も進言しなかった。
 一方、孟嘗君は薛で金を貸し付けていたが、1年たっても貸したものも利息さえも返ってこなかった。これでは、食客三千人の費用にも支障がでてくる。孟嘗君は困って側近に問うた。
「貸し金を取り立てるには誰が適切だろうか」
 宿舎の長が「馮歓は弁も立ち、取り立てにはうってつけでしょう」と言う。すぐに、孟嘗君は馮歓を近くに呼んで、頼んだ。馮歓は承知しましたと答えて、出かけた。
 馮歓は薛に着くと、酒をたくさん造らせ、肥えた牛を大量買い、金を借りているものを呼んだ。利息を出せたものは皆来い、出せないものも来い、借金の証文を引き合わせて調べる、と言うのである。牛を殺し、酒もりも始めた。酒がじゅうぶんまわったころ、証文を取り出し、利息を出せたものには元金を返す期限を定め、貧しく利息さえ出せぬものには、証文を取り上げて焼いた。そして、馮歓は言った。
「貧困の者の証文は焼いて捨ててしまうこととする。諸君、腹いっぱい飲んだり、食ったりしてくれ。このような殿様の信頼にこたえないでよいものだろうか」
 座っていたものは一斉に立ち、再拝して感謝した。
 孟嘗君は馮歓が証文を焼き捨てたと聞いて、腹を立てて問い質した。
「貧乏なものから厳しく取り立てようとしても、逃げるか、証文を破り捨てるかのどちらかでしょう。どうせ、戻ってこないものであれば、目の前で焼き捨ててしまう方が殿様の名声を高めることでしょう。私は殿様の評判を高めようとしてやったまでのことです」
 孟嘗君は手を打って感嘆し、礼を言った。孟嘗君は度量の大きい人物であるが、馮歓(ふうかん)もそれに劣らず傑物である。彼らは人間の本性をよく理解していたのだった。

 客の接待はやさしいようで、誰にでもできることではない。大判振る舞いをすればいいという訳ではない。お金や気の向くままに客を接待していても、効果がないばかりか、かえって相手に侮られてしまいかねない。
 中国人は接待上手と言われるが、果たして本当にうまいのであろうか。接待主人(ホスト)が丸いテーブルの上席に座り、客人に対して何でもいいから注文しろと言われても、客人は何を頼んでいいか分からない。時には、高いものを食わせたり、飲ませたりすれば、客人が喜ぶと誤解しているホストに出会うことがある。また、注文した料理の素材や調理方法あるいは料理に関する言い伝えは服務員(ウェイトレス)の仕事だとホストが信じている場合もある。これは勘弁して欲しい。客人は乞食ではないのだから、ただ飯が食えればいいという訳ではない。
 ノーベル賞授賞学者の野依良治から直接聞いた話であるが、ヨーロッパに行ったとき、是非とも自宅に来てくれと当地の学者に懇願されたことがあったと言う。断りきれず、行ってみると、小さい家の一室に親子3人で住んでいた。子供部屋とはカーテンで仕切られており、狭い台所で、奥さんの手料理を三人で食した。その時の料理の味と暖かいもてなしの気持ちが忘れられないと野依氏は懐かしそうに語る。日本人は学者に限らず、海外生活経験者でさえ、外国人を自宅で接待しようとする者は少ない。家が狭いから恥ずかしいのではなく、接待の気持ちをうまく現すことができないから恥ずかしいからである。議論をすり替えてはいけない。
 都市化が進展するほど、人間関係が希薄になっていく。仕事を通じた形式的で表面的で軽薄な関係が当たり前になろうとしている。インターネットやケイタイの普及で、人間関係の基本が変わるのではないかと不安になることがある。直接ひとと接しないのが普通になるようなことになれば、私はそのような社会には未練はない。ITを使った自宅勤務の推奨はペテンである。早くそんな世の中から去りたい。
 一方、経済成長だけが進展している中国では、仲間内の人脈は強いと言われるが、意外に金銭面や短期的利益に偏っていて、壊れやすいものなのではないだろうか。
 家族、気の置けない友人、魅力的な異性などとの食事は至福の時である。それを目的にして、ほとんどの人間は生きていると言っていいかも知れない。先端の科学者たちが軽食をとりながらのブレーンストーミングもアイデアがアイデアを生む最高の時間である。創造力が発揮される瞬間である。
食事はひとの絆を深め、新しいアイデアを生み、人間の品格を磨く場である。
 孟嘗君の物語が現代でもよく読まれるのは、人間関係が砂漠化した現代に生きる者の癒し効果のためなのかも知れない。
 たかが食事、されど食事である。


<参考文献>
『史記列伝』(一)司馬遷著(岩波文庫)



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