匈奴の属国だった漢帝国

 北京の西隣に位置する山西省の大同市は、世界文化遺産の雲崗(うんこう)石窟寺院遺跡と石炭の巨大産地として有名である。鮮卑族が建国した北魏は398年から494年にかけて大同に都を定め、仏教の信仰に篤い王が建てたのが雲崗石窟寺院である。世界遺産として世界中の観光客を集めている。
 一方、石油資源に乏しい中国はエネルギーの大半を石炭に頼らざるを得ないが、大同は有数の炭田地帯としても有名である。炭鉱都市であるため空気が非常に悪い。
 筆者は1994年に雲崗石窟寺院遺跡を見るために一度大同を訪れたことがあるが、二度と訪れたくないと思っていた。その時出会った中国語のできない西洋の女性観光客がハンカチで口を押さえながら、「この街から一刻も早く出たいがどうすれば汽車やバスの切符を入手できるか」と嘆願するように筆者の目を覗き込んできたことをよく覚えている。以前は、汽車の切符を購入するには、争うように窓口に殺到するなど相当な苦労をしたのである。今は、汽車もバスも切符を比較的簡単に購入できるようになった。
 さて、今回再び大同を訪問するようになったのは、別の要件からである。
 中国人はほとんど知らないが、漢の高祖劉邦は大同の郊外の白登山(はくとうざん)で、匈奴軍に取り囲まれて九死に一生を得たことがある。漢軍は劉邦解放の交換条件として、大量の貢物と皇族の娘を匈奴に嫁がせることを約束する。つまり、漢帝国は匈奴帝国への朝貢を受入れたことになる。分かりやすく言えば、漢は匈奴の属国であった。この屈辱を雪(すす)ぐには武帝による匈奴討伐まで待たねばならなかった。
 筆者は立春過ぎの週末、北京から列車に乗って大同に向かった。白登山戦遺跡を見るための1泊2日の小旅行である。列車は374キロを6時間もかけて大同まで走る。標高500メートルの大同高原まで山地を河に沿ってくねくねと駆け上るため時間がかかる。コンパートメントには、河北省の保定で働き、内モンゴルの実家に一時里帰りするという中年夫婦が乗り合わせていた。主人は昼間から酒を飲みご機嫌であるが、奥さんはそんな姿を見て、ご機嫌斜めである。
 筆者は時間つぶしに色んな話をした後で、別れ際に何度も保定に遊びに来るよう招待された。中国人はお客の接待が好きである。日本人は外交辞令として、「今度近くにお越しの際は、我が家にも立ち寄って下さい」というが、中国人は本気である。こんな時に、外交辞令は使わない。中国人は生の感情で接してくれるため、彼らとうまくつき合えば、日本人と以上に気持ちが安らぐことがある。中途半端な言い方は迷惑をかけると思い、「あなたの気持ちには感謝するが、保定に行く機会はないと思う」と言って、電話番号を交換しなかった。笑顔で、握手をして別れた。
 大同駅に着くと、空気が意外にきれいなのに驚いた。以前嫌な思いをした煤煙や炭鉱の臭いがしない。タクシー乗り場に向かうと、数人の運転手がどこに行くのかと尋ねてくる。
「白登山に行きたい」と言うと、「それはどこにあるのか」と彼らは口々に質問してくる。
 ネット上のホームページからコピーしてきた、白登山遺跡の住所とそこへの行き方を示すが、4、5人の運転手は誰も行ったこともないし、知らないと言う。早速、一人の運転手がどこかに電話し、訊いてみるがそれでも分からない。何事かと、警察官が寄って来たが、状況が分かるとすぐに去って行った。すると、男が寄ってきて、あたかも行ったかのような口ぶりで、こう行けばいいと指示をする。大体の方向が分かると、ひとりの運転手が俺のクルマに乗れと言う。タクシーは大同市から出て東の郊外に向かって走り出した。
運転手が車中で「運賃は100元でどうか」と言うので、「高すぎる」と回答すると、大同駅のタクシー乗り場に乗り入れるだけで10元取られるなどと理屈を並べ立てる。筆者は交渉が面倒になり、また冷静に考え直すとそんなに高くないと思い、ついに折れることにした。
 市内から3キロほど郊外に出ると、運転手はクルマを停め、民家の女性に道を訊くが、知らないと答える。ちょうど出てきたその家の主人が白登山はこっちの方向だ。あそこに見えるのが何々だという風な会話が耳に入る。意を強くした運転手は指示通りの方向にクルマを飛ばした。しばらく行くと、バイクの男性に追いつき、また同じ質問を繰り返して訊く。訛りが強くてよく分からないが、俺の跡についてこいと言っているようだ。バイクの先導で白登山戦の遺跡の方に行くことになった。この時点で本当に行き着けるのか不安であった。
 バイクは途中から舗装していない山道に入り、山を登り始めた。我々のタクシーはそれを追いかけるが、デコボコがひどく速く走れない。バイクとの距離は開くばかりだ。途中左右に分かれているところがあり、どっちに行ったと運転手が何回も筆者に訊く。高度は次第に高くなっている。周りは墓地であるようだ。墓標が立っている。最近供えられた葬式用の白い花輪も見かける。気色が悪い。まだ陽が高いのが救いだ。バイクは途中で、我々が来るのを待っていてくれた。バイクの男は山の遠くを指差し、「あれが白登山だ。その頂上に石碑がある」と言う。最後に、「遠いぞ」と繰り返す。
 確かに、稜線伝いの向こうの山頂に立っている石碑が見える。嬉しくなった。2キロくらい先であろうか。ここまで来れば何としてでも、行かなくてはならないと筆者は決意する。我々はバイクの男にありがとうと言って、山頂を目指すことになる。運転手は予想外の悪路に機嫌が悪い。遠くて、道が悪いと何度も繰り返す。筆者は急ぐと危ないから、ゆっくり走れと言い返す。大同駅前のタクシー運転手の誰も知らない理由がやっと分かった。余程の歴史愛好家でなければ、こんなところに来るはずはない。日本人でやってきたのは筆者が初めてかも知れない。そう思うとうれしくなったが、運転手が嫌なことを言う。
「こんなにひどい道を行くのだから、50元プラスしてくれよ。旦那」
 無視していると、聞こえなかったと思ってか、また同じことを繰り返す。
 中国人というのはまったく駆け引きが上手だと思いつつも、仕方なく同意する。目標直前で引き返すと言われても困る。彼らは足元を見るのに長けている。
 白登山の頂上に立った。西方の大同の市内は煙とガスに覆われている。白登山は大同高原から標高300メートルであろう。クルマで登ってこられたのだから、なだらかな山である。山腹までよく見渡せる。
約2200年前の紀元前200年の厳冬、劉邦がこの山で匈奴軍に包囲されたのだった。当時、森林が生えていたかどうかは分からないが、劉邦精鋭軍は匈奴の40万の騎兵に包囲され、突破できなかった。当時の模様を頭の中で再現しようと思ったが、うまく劉邦軍や冒頓単于の大軍が浮かび上がってこない。
 筆者がその現場に立ったのは2月8日午後4時。暖かい日であった。石碑の他には当時を偲ぶものは何もない。石碑は1992年大同市政府によって建てられたものである。比較的新しいのは、漢民族にとって屈辱的な敗戦を目立たせたくないからであろう。「白登山戦遺跡」の石碑の裏には、当時の模様が書かれているようであるが、ペンキが剥げていて彫られた文字がよく読めない。

 現代人が歴史を認識するには、残された史書や遺跡などから解釈するしかない。漢民族は歴史の記録に熱心であったが、匈奴は記録にほとんど無関心であったため匈奴側からみた歴史の真実がよく分からない。我々は漢民族が残した史書に頼らざるを得ないため、知らず知らずのうちに漢民族の論理に偏った視点で歴史を解釈してしまう。
 歴史の真実に迫るには複合的視点が必要であることは論を待たない。以上の視点を大切にしつつ、まずは司馬遷の『史記』匈奴列伝を読んでみよう。
「高祖(劉邦のこと)は自身で兵をひきつれ、匈奴討伐に出かけた。折りしも冬の寒さがもっともきびしいときで、雪が降っていた。凍傷のため指を腐らす兵卒が十人に二、三人いるありさまだった。このとき冒頓単于(ぼくとつぜんう、匈奴を統一した王)は負けたふりをして逃走し、漢の兵を誘った。漢兵は冒頓の軍を追撃した。冒頓単于は精鋭部隊をかくしておき、やせて弱そうなものだけが目につくようにした。そこで漢は全軍歩兵三十二万をこぞって、逃げる敵を追って北に向かった。高祖は先に平城(今の大同)に到達し、歩兵部隊はまだ後方にあった。そのとき冒頓単于はかくしていた精鋭の騎兵四十万をくり出し、白登山において高祖を包囲すること七日に及んだ。漢軍は分断され、包囲の内と外とで互いに救けあうことも食糧を送ることもできなかった。(中略)
 高祖はそこで使者をやって阏氏(あつし、単于の正妃の称号)に手厚い贈り物をした。阏氏はやがて冒頓単于に向かって言った。
『君主同士は、互いに苦しめあわないものです。いま、漢の領地を手に入れなさっても、単于さまはけっきょくのところ、そこに住むわけにはゆかないでしょう。それに漢王にも加護の神霊がありましょう。単于さま、よくお考えなさいませ』。
 冒頓単于は阏氏の言葉をとりあげ、包囲の一角を解いた。そのとき高祖は兵士全員に命じ、弓をひきしぼり、矢をつがえて外側にねらいをつけさせ、解かれた一角から抜け出して、やっと大軍とあうことができた。冒頓単于もそのまま兵をひきいて去り、漢も兵をひきいて撤退した、そして劉敬を使者として講和条件を締結した。(中略)
高祖は劉敬を使者として一族の娘を公主(内親王)にしたてて単于のもとに送り阏氏とした。毎年、匈奴に綿や絹物、酒・米・その他の食物をそれぞれ一定数量納めることとし、兄弟の約束をとりかわし、講和した。冒頓単于はやっと侵略をひかえるようになった」
 これは漢民族側の記述である。実際は、漢王朝はもっと屈辱的な状況だったと想像してもおかしくはない。余談であるが、「満を持す」という表現は、『史記』の記述中の「弓をひきしぼり、矢をつがえて外側にねらいをつけさせ」た状態を指していたのである。現代では意味が変わっている。この脱出の瞬間、劉邦はほっとしたことである。
 皇帝の座を争う項羽との戦いで優れた知略を働いた劉邦が冒頓単于の罠に簡単に嵌まるとは、劉邦は一世一代の失敗をやらかしたことになる。間抜けと言わざるを得ない。漢は、以降公主や後宮の美女を匈奴に嫁がせるとともに、毎年、大量の絹、酒、米などを匈奴に奉納している。実質的に、漢帝国は匈奴の属国に近かったのである。
 『史記』には、講和条約締結後も、匈奴はそれを破り、長城を越えて南下し、略奪したり、多くの人々を連れ去り、その度に皇帝は講和条約を締結せざるを得なかったと繰り返し記述している。両者の本格的な戦いが50年近くも続いた。漢の側の論理では、匈奴は約束を守らず、略奪を繰り返す野蛮人であると断定しているようなものである。
その後、武帝の時代に国力が増し、皇帝は衛青(えいせい)や霍去病(かくきょへい)を匈奴討伐のために北方に派兵している。劉邦後の属国に近い扱いを受けてきたことに対する恨みを雪ぐかのように匈奴を討とうとしている。この時、漢が講和条約を破ったとはどこにも記されていない。勝手なものである。衛青は長城の外に遠征し、匈奴との戦いに勝ったのは、秦の蒙恬(もうてん)が匈奴を討った後、じつに80年ぶりのことだった。
 また、武帝は匈奴を東西から挟み撃ちにしようと、西域に張騫(ちょうけん)を使者として派遣している。匈奴が内紛などで弱体化すると、武帝は西域(さいいき)の征服に積極的に乗り出す。シルクロードが開通し、東西の文物の交易が盛んになり、漢は莫大な富を得ることになる。
 宣帝の時代に、単于が漢に入朝し自ら臣と名乗ると、皇帝は大いに喜び、後宮の美女王昭君(おうしょうくん)を単于に嫁がせている。王昭君は中国四大美女の一人として歴史に名が残されたのは美貌もさることながら、匈奴を屈服させた象徴としての意味が大きいと、筆者は考えている。中国の中学生の教科書にも王昭君は漢と遊牧民族との融合の象徴として記されている。
 朝廷内で出世を目論む武官らは弱くなった匈奴をしばしば討っている。劉邦以来、戦功を上げない武将は出世できないという規則があったため、勝てると分かっていた匈奴との戦によく出兵したのである。
 匈奴の正体はよく分かっていない。トルコ系ともモンゴル系とも言われる。匈奴は民族名ではなく、政治集団の名前であるという説もある。匈奴という名前からして、差別的な呼び名であるが、匈奴自身が歴史上記録を残していないので、匈奴側からの視点を知るのは大変困難である。
 匈奴が中国の史書に登場するのは、戦国時代の後期、紀元前3世紀中葉、趙と交戦した時である。匈奴は優れた騎馬技術と武器を持っていたが、それまで中原の諸侯は馬に乗る技術を知らなかった。馬車といえば、数頭の馬に3人乗りの馬車を引かせていたのだった。戦闘のスピードに格段の差があったと考えられる。趙は騎馬技術を最初に取り入れた諸侯となり、戦国時代に勢力を増大していく。
 『史記』は、匈奴では「若くて強い者が重んじられ、老人は軽んぜられる」と書いており、儒教の精神に反するとしているが、匈奴の価値観に立つと、常に草原を移動し、遭遇した部族や異民族と戦わねばならなかったため、壮健な若者が重視されるのは当然のことであった。また、史書は、「一家の長が亡くなると、その跡を継いだ子は自分の父母以外の父の妃達を受け継ぐ」との記載も儒教の倫理からすると野蛮であるが、匈奴は一族の繁栄のためには残された強い男が女を受け継ぎ、子孫を産ませていったのだ。人口の少ない遊牧民族にとって人口増加は死活問題であった。これらの特徴は、匈奴のみでなく、遊牧民族に共通のものである。
 その後、匈奴は紀元48年、内紛によって北匈奴と南匈奴に分裂し、南匈奴はまもなくして漢王朝に降る。紀元91年、北匈奴は漢との戦いで大敗すると、西方に追いやられ、現存の史書から名前を消してしまう。
 4世紀に南ロシア草原に出現したフン族が匈奴の末裔であることはほぼ間違いがないようだ。南シベリアで発見された遺跡は匈奴のものと思われる文物が多く残されている。このフン族はゲルマン民族の大移動を引き起こし、「死なぬ(476年)はず」の西ローマ帝国滅亡の原因となる。漢人が匈奴を破ったことで、彼らは西に去り、数世紀の時間を経て、他の民族を玉突きし、最後に西ローマ帝国を地中海に落としたのだった。
 多くの遊牧民族を育んだのはモンゴル高原であった。匈奴、東胡、鮮卑、柔然、突厥、ウイグル、キタイ、モンゴルなど世界史に名を残す遊牧民族は、世界最大で、肥えた大草原であるモンゴル高原から興った。モンゴル高原を穀倉地帯に開発すれば、アジアの食糧問題は解決するという農業学者もいるという。
 モンゴル帝国は侵略した都市で略奪と殺戮を繰り返したため、遊牧民族は野蛮で残虐だという印象を人類史に残してしまった。さらに、彼らは歴史の記録に関心を示さなかったため、彼らの習慣や行いは記録が残された国の史書を通じて理解するしかない。しかし、記録が残っているから文明国であるとは限らない。文字を発明したから文明国であるとは限らない。相手の価値観を無視し、自らの論理や価値観に盲目に従い、他の民族を無差別に殺戮してきた民族が最も野蛮である。
 匈奴には匈奴の文明と価値観があったはずである。それを史書から知ることはできない。彼らが何を考えていたかに思いを馳せることは我々の想像力を刺激する。中央アジアの遊牧民族の視点は、世界の歴史を描き直す機会を与えているように思われる。

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この記事へのコメント

全面戦争
2017年03月30日 23:22
 名古屋の特殊鋼流通としては力強いお言葉です。

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