大国に最初にノーと言った日本人-聖徳太子

 日本人は歴史の授業時間に、聖徳太子は小野妹子を超大国の隋に遣わし、煬帝を激怒させたと教わっている。これを知らない日本人はいないと言っても過言ではない。
「日出ずるところの天子、書を日没するところの天子に致す。恙無きや」
 煬帝が激怒した理由は二つと言われる。ひとつは、小国である倭が中華の皇帝と対等な天子を名乗るとはなにごとだということ。もうひとつは、隋王朝を日が没するとは無礼千万ということだ。
しかし、ここに疑問がある。聖徳太子ともあろうものが意図的に煬帝を怒らせるつもりだったのか。聖徳太子のこの国書の狙いは何だったのか。そして、中国の史書『隋書』の「煬帝が激怒した」という記述は事実かということである。
 『随書』「倭国伝」にはその決定的瞬間を次のように記している。
「大業三年(607年)、其の王多思比孤(たりしひこ)、使を遣わして朝貢す。使者曰く、聞く海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと、故に遣わして朝排せしめ、兼ねて沙門(僧侶)数十人、来たりて仏法を学ばん、と。其の国書曰く、日出ずる天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや云々、と。帝(煬帝)、之を覧て悦ばず、鴻胪卿(こうろけい、外交・儀典担当大臣)に謂って曰く、蛮夷の書に無礼なる者有り、復た以って聞する勿れ、と。明年、上(煬帝)文林郎の裴清(はいせい)を遣わして倭国に遣わしむ」
 この記録には色々な意味が含まれている。少しづつ解析したい。
 まず、多思比孤(たりしひこ)とは聖徳太子を指すと一般に言われている。
「使を遣わして朝貢す」とは、小野妹子を遣わしたのであるが、倭国が朝貢する意図が聖徳太子にあったか疑問だ。それは以降の文を読めば推測できる。
使者を派遣した理由は、菩薩天子(仏教を信仰している煬帝を指す)は世界宗教である仏教を振興していると聞くが、同じ仏教国である倭国も仏教勉学のために僧侶を派遣したいとしている。つまり、仏教を信じる国同士としては、平等であると主張しているのだ。聖徳太子は当初から倭国と中国は対等につき合うべきだと考えており、当時の世界宗教であった仏教を持ち出し、仏教の下では両国は平等だと主張している。煬帝はフンと不満であったかも知れないが、反論はできにくい。
 小野妹子が携えた国書には、「日出ずる天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや云々」と書かれていた。きっと、日本語ではなく中国語で書かれていたはずだ。この部分をどう解釈するかはポイントだ。
天子がこの世に二人いるはずはないので、煬帝は「ふざけるな」と思ったに違いない。「何も知らない野蛮な国だ」と冷笑したかも知れない。さらに、隋を日没する処の天子と書かれていたため、小野妹子は平身低頭して、「特別の意味はありません。だが、西にある国という意味です」などと冷や汗をかきながら弁明したことであろう。ただ、隋はわずか38年間で滅亡するため、期せずしてこの記述は正しかったことになるが、聖徳太子がそこまで意図したと考えるのは考えすぎである。
 また、「書を日没する処の天子に致す」の主要部分を取り出すと、「書を致す」になるが、この表現は国書には使わない。国書の形式は、上級の国には「敬問」、下級の国には「問」という表現を使うのがしきたりであった。聖徳太子がそれを知っていたかどうか分からないが、仮にそれを知っていて、対等な立場を強調する意味で、「致す」を使用したとすると、傑出した国際政治家というべきであろう。
 さらに、「煬帝、之を覧て悦ばず」とあるが、不快に思っただけで、激怒したとは書かれていない。煬帝が激怒したと多くの日本人が思っているのは、きわどい外交文書であったと認識しているからであろう。大国に攻められては敵わなかったのだ。
 煬帝は「蛮夷の書に無礼なる者有り、復た以って聞する勿れ」、つまり、「こんな野蛮な国の無礼な書が来れば、これから報告しなくてよい」と鴻胪卿(こうろけい)に言ったのである。どうやら、煬帝は、倭国は華夷の国際ルールを知らないからこのような無礼な国書を送ってきたのだと考えたようだ。聖徳太子の意図とのずれが垣間見える。
 最後に、「明年、煬帝、文林郎の裴清(はいせい)を遣わして倭国に遣わしむ」とある。翌年、小野妹子一行の帰国に裴清を同行させている。煬帝は、本音ベースでは、倭国を重視していたのである。煬帝は高句麗討伐にてこずっていたからである。なお、余談であるが、古代中国では中華は秦、漢、隋など一文字で、夷の国は匈奴、鮮卑、朝鮮、越南など二文字で表現していたが、倭国の使者が倭と一文字で名乗ったため、不自然に思われていたようである。だが、その後、日本と二文字で自称するようになると、中華帝国も「やはり」と思ったようだ。華夷思想はこんなところにも反映されていたのだ。
 『隋書』「倭人伝」には、倭国について以下の記述がある。
「新羅・百済、皆な倭を以って大国にして珍物多しと為し、並びに之を敬仰し、恒に使を通じ往来す」
 隋人の認識では、倭国は新羅と百済より大国で、尊敬されていた国であったのだ。高句麗は新羅と百済より北方の国であるが、高句麗打倒のために、倭国を大切にし、うまく利用できないかと煬帝が考えていたのかも知れない。さらに、聖徳太子も朝鮮半島の事情をよく把握しており、煬帝は倭国に無理難題を押しつけないはずだと読んでいたのであろう。そういう読みが、聖徳太子の煬帝への国書に現れている。それから、当時の日本は「邪馬台国」や「卑弥呼」と呼ばれていたように、邪や卑のような悪い文字を使われており、漢人に対等な関係とは思われていなかった。自立した国になるというのが聖徳太子の願いであったと思われる。
 小野妹子は煬帝の国書を持参したが、百済で検問を受け、取られたと報告している。実際には、その国書には倭国を属国扱いにしたことが書かれており、帰国後問題を起こすのを小野妹子が恐れたためと言われている。さらに、再びすぐに隋に渡った小野妹子は「東の天皇、敬しみて西の皇帝にもうす」と書かれた国書を持参している。これは『日本書記』に記録が残っているが、この国書に関する記述は中国側の史書に残されていない。つまり、小野妹子は二度も国書を廃棄した可能性が高い。
 煬帝を不愉快にさせた前の国書より一歩進んだ関係の国書を持参したため、小野妹子は今度は殺されると思ったのかも知れない。あるいは、この国書は煬帝に渡されたが、中国の史書には記録されていない可能性もある。少なくとも日本側は、その後も遣隋使は続けられたのだから、天皇という言葉が皇帝に受入れられ、対等な立場でつきあうという誇りが日本人に宿ったことであろう。
 隋の煬帝は天下でただひとりの天子と信じ、倭国はそれを認めていないので、両国の国書は矛盾を来たすことは避けられない。国書を破棄した小野妹子の判断は正しかったのであろうか。単なる保身のためか、それとも両国の対立激化を避けるための懸命な措置であったのか。小野妹子は聖徳太子の影に隠れているように筆者には思える。
 なお、小野妹子が持参した国書は実はひとつであり、『日本書紀』の作者が、「日出ずるところの天子、書を日没するところの天子に致す」を「東の天皇、敬しみて西の皇帝にもうす」と書き換えたという説もある。この後、天皇という称号が日本で使われることになる。これが真実であれば、国内外のダブルスタンダードである。日本国内向けに、中国の皇帝に「天皇」という言葉を認知させたと宣伝したのである。この説は、日本が歴史を改竄したことを認めるものであり、日本人のプライドを傷つけるため、日本の学校では教えられていない。
 天皇という字は天空の北極星を中心に多くの星が周回するように、天に存在する中心のイメージから来ている。一種の中華思想に似ている。日本という国名も“太陽の元”の意であるから、やはり中華思想の香りがする。日本は歴史的に中国から思想や技術を導入する過程で中華思想の影響を多少なりとも受けている。それは朝鮮より際立ったものにはならなかった。中国から輸入した文化を日本化する努力を継続してきたため、中華思想の影響が弱くなったのだった。しかし、太閤秀吉のように明朝を打倒し、それにとって代わろうとしたり、日本帝国主義が大陸を侵略してきた歴史的意図のなかに、中華思想への歪んだ憧憬があるように筆者には思われる。日本は独自性を持つためにも、中国から導入された中華思想の遺伝子が発現しないようにしていくことが大切である。
 もうひとつ日本人が認めたくない説がある。小野妹子は607年及び608年に隋の煬帝に派遣されているが、中国の史書には600年にも遣隋使が派遣されていると書かれている。その遣隋使が面会したのは、隋を開いた文帝である。日本の政治システムを問われた使者は、大和政権には法令もなく未成熟だったので、天皇の権威を全面に出すために古来の日本神話を得意になって話した。文帝は神話と現実の混同にあきれ果て、倭国の政治は道理にかなっていないとして、外交関係を結んでもらえなかったという。この失態は屈辱であるため『日本書紀』には記載されていない。
 その後、聖徳太子は国家の建設に発奮し、603年冠位十二階を制定、604年十七条憲法制定などの改革を行い、律令国家の建設を急いだ。これで隋の皇帝にバカにされないと思い、607年小野妹子を隋に派遣したというのだ。
 中国に限らず、日本でも為政者の都合のいい記録しか史書に残されていない可能性はある。自国の歴史は自国の史書を基に記述されるため、客観性に欠けることは十分あり得る。真実を知っているのは、聖徳太子そのひとだけである。
 煬帝の話に戻そう。
煬帝は言うまでもなく、ヨウテイではなく、ヨウダイと読む。意図的に慣用されていない呉音(ごおん)を用いて、帝をダイと読ませている。煬帝のような暴君な皇帝は二度と出現してはならない、皇帝の名に値しないという意味を込めて、隋を引き継いだ唐王朝が悪い名前をつけたのだ。唐は建国の正当性を主張するために、煬帝を貶める必要があった。中国の歴史の特徴の一つは、前政権を過度に悪く表現していることである。日本が歴史認識を巡り中国政府から非難される理由のひとつは、日本旧陸軍と国民党が実質的に中国共産党の前政権であったからではなかろうか。現在、中国共産党は台湾国民党との間で和解が成立しつつある。日本旧陸軍は中国の歴史の法則に従うと、いつまでも非難され続けられるかも知れない。
 煬帝は華北と華南を結ぶ大運河の建設、数千の豪華な竜舟を伴う南方への豪遊、数回に渡る高句麗への大遠征、各地での豪華宮殿の建設ラッシュなどやりたい放題にやっているように思える。倹約家の父文帝に反発するように、奢侈に励んだようにも見える。国家財政は急速に悪化し、各地で叛乱が起こり、煬帝は部下に殺され、隋はあっけなく滅びた。その後、唐は隋が建設した長安城や政治体制をそのまま引き継ぎ、世界帝国の繁栄を謳歌することになる。
 隋文帝は約370年ぶりに天下を統一したことで誉れ高いが、煬帝は典型的な暴君のように思われている。しかし、華北と華南を繋いだ大運河は万里の長城に匹敵する大事業であるが、後世に残した財産といえば、大運河建設の方が効果的であったであろう。中国の南北地方の一体化を推進した歴史的意義は非常に大きい。中国の歴史上、南方が人口のみでなく、食糧生産などでも上回るようになる時代に差しかかりつつあったため、先見の明があったともいえる。
 北京市の西の通州区を流れる京杭運河は大量の水をたたえている。かつて、北京と杭州の間を大型の多くの舟が行き来し、食料などを大量に運送していたのである。その脇の「運河遺跡広場」と呼ばれる公園では、親子連れが凧揚げやローラースケートや散歩などで楽しく遊んでいる。
「俺が小さい頃は、運河に飛び込んで泳いだものだ。今の子供は泳がない」
 近くに住む60歳過ぎの男性は当時を懐かしむように話してくれた。今は水質汚染もひどくなったのだ。
 唐王朝が編纂した『随書』にどう書かれていようとも、煬帝の偉業を見落としてはなるまい。そして、その煬帝と対等に渡り合った聖徳太子から日本は多くのことを学べるはずである。
 第二の聖徳太子よ! 現れよ。

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この記事へのコメント

いしやま
2013年12月28日 03:31
ロドリゲスの日本大文典に倭国年号として聖徳がありますので、聖徳は倭国のモノでしょう。
つちかべ
2014年01月04日 08:20
安土桃山末期、江戸初めの1604年に、ポルトガル人のジョアン・ロドリゲスが、日本に布教に来て30年ほど滞在し、作ったのが「日本大文典」という印刷書籍です。400年前の広辞苑ほどもあるような大部で驚きます、秀吉の知遇、さらに家康の外交顧問もしていました。当時、スペイン国王からはメキシコに帰る難破船救助のお礼に、「家康公の時計」をもらっています。古代から伝えられてきた日本の歴史について知ることができる タイムカプセル でしょうか。戦国時代直後まで伝えられてきた古代史で、倭国年号が522年善記から大宝まで記載され、続いて慶雲以後の大倭年号が続きます。日本大文典の倭国年号の存在は、ウィキなどにも記載されていません、「日本大文典」の実物を手にとって見てください、感動すること間違いありません。    宜しくお願いします。
化け猫
2014年10月22日 17:56
ちわっす。あのー多思比弧じゃありません。多利思北弧ですよ。原文の通りに書いてください。それから、隋書には見たことも聞いたこともない倭国人の名前が記述されていて、厩戸王や推古天皇・蘇我馬子の名前はいっさい登場しないんですよ。小野妹子や秦河勝も然りです。何故それは言及しないんですか?

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