旅行記「中国開封まで迫害から逃れて来たユダヤ人」

 2009年4月15日、筆者は2000年のG8サミット会場で開催された「日中科学技術政策セミナー」に出席した後、東京大学総長と文部大臣を経験した有馬朗人とともに羽田行きの飛行機を待つ間、那覇空港の沖縄ラーメン屋にいた。筆者は縄恩納村の美しいサンゴ礁の海の感動にまだ浸りきっていた。
 食事の注文が終わるや否や、有馬氏が口を開いた。
「いつか行ってみたい都市がある。開封(かいほう)だ」
 偶然なことに筆者も開封にはいつか行ってみたいと思っていたが、機会が巡って来なかった。開封はかつて漢民族の北宋とそれに続く女真族の金の首都であった。当時は、汴京(べんけい)とも東京(とうけい)とも呼ばれていた。黄河に近い中原の代表的な都市である。
 筆者は耳をそば立てた。
「千年前、開封にユダヤ人の集落があったそうだ」
「ユダヤ人? なぜ?」
 筆者は訊きかえした。
「キリスト教十字軍のエルサレム奪還などで迫害を受けたユダヤ人の一部がはるばる中国まで逃げてきて、当時の首都の開封にたどり着いたという。証拠の石碑がある。それを見たい」 
 これは面白そうだと思った。有馬氏は1968年にイスラエルを訪問した際に、友人から開封のユダヤ人の話を聞かされたという。
 羽田空港にタッチダウンし、深夜に自宅に着くや、グーグルで「開封のユダヤ人」で検索すると、ある本がヒットした。『中国・開封のユダヤ人』小岸昭著(人文書院)をネット注文し、数日後に届いた本書を読むうちに、是非行って、ユダヤ人の足跡を辿ってみたいと思った。なぜ、わざわざ開封までやってきたのであろうか。ユダヤ人の末裔も開封にいるらしい。会えるのであれば会って話を聞いてみたい。それに、この旅を契機にまだ気づいていない新しい中国の歴史観が見えてくるのではないかとも期待した。
 1096年から約200年間に渡って、カトリック諸国が聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣された遠征軍は十字軍と呼ばれている。この運動のなかで、中世ヨーロッパにおいてキリスト教徒によるユダヤ人の迫害の嵐が吹き、ユダヤ人はそれから逃れるように世界各地に離散していく。あるユダヤ人の集団が当時、地中海東岸のペルシアの土地からシルクロードを経て、遥か中国中原の都の汴京(べんけい、今の開封)までさまよい、子孫たちがそこに一千年も定住したという。ユダヤ人は何千キロの苦難なシルクロードの旅行をやり遂げて、まったくの異国である中国に渡り、しかも、一時数千人規模のユダヤ人社会を形成するまで繁栄していた。なんという生命力だろうか。
 日本人は東南アジアのタイのアユタヤやベトナムのフエに渡り、日本人町をつくったが、現在まで末裔が残っていると耳にしたことがない。ユダヤ人と日本人では、民族の求心力の“核”の強さが根本的に異なるのである。
 北宋は汴京を首都とし、紀元960年から1126年まで栄えた王朝である。汴京は当時世界で最も栄えた百万都市であった。『開封のユダヤ人-黄河南岸の中国系ユダヤ人』によると、迫害から逃れるためペルシアなどヨーロッパ周辺国からやって来たユダヤ人は宮殿で皇帝に謁見し、西洋の綿織物を貢ぎ物として贈ると、皇帝は旅人たちを手厚くもてなし、彼らに言った。
「汝らが我が支那に来たからには、汝らの先祖の習慣を尊崇・遵守し、ここ汴京にてそれらを子々孫々伝えよ」
 疲れ果てた旅人は定住と宗教の自由を皇帝から与えられたのである。
 その後、ユダヤ人は漢族姓を与えられ、ある者はユダヤ教教会・シナゴーグのラビ(聖職者)になりユダヤ教を守り続け、ある者は部族外結婚や科挙合格により漢民族社会に適応していった。通常離散したユダヤ人は移住先の文化と隔離して(あるいは隔離されて)、生きていくケースが多い。開封のユダヤ人は他の民族や宗教集団と同じ平等の権利を享受し得た。中国の寛容な風土が影響している。各民族の共存が重要という考えが漢民族の主流であったのであろう。日本からの留学生のなかにも阿倍仲麻呂のように科挙に受かり、漢民族社会で出世していった者もいることを考えると、古代中国は少数民族のみならず、海外の民族に対しても同様の待遇を与えていたことになる。ヨーロッパでは、ユダヤ人はすべての経済的・政治的・文化的な枠の外におかれ、差別され、時には迫害されていたので、開封のユダヤ人の状況は特異である。
 ただ、世界有数の独立性を誇るユダヤ人でさえ中国に定住して、次第に漢化されていったのを理由に、中国文明の普遍性やレベルの高さを強調する中国人学者も存在する。
 『中国・開封のユダヤ人』によると、開封に住むことを許されたその後のユダヤ人の足跡は以下のとおりである。
 1163年、南宋第二代皇帝孝宗(こうそう)の時代、開封のユダヤ人はシナゴーグを始めて建てた。
 1286年、フビライに仕えて中国に滞在していたマルコ・ポーロが北京で数人のユダヤ人に会った。
1489年、シナゴーグが再建され、開封ユダヤ人共同体の最初の石碑が建造される。書かれた文字はユダヤ語でなく、漢語だった。
 1605年、イエズス会宣教師マッテオ・リッチは開封のユダヤ人の艾田(がいでん)と北京で会い、その出会いをマカオとローマの上司に伝えている。
 艾田は18歳で科挙に合格し、役人として出世していくが、彼はヘブライ語の読み書きができなかった。艾田は北京に西洋人がいると聞き、開封のユダヤ人を代表して、域外のユダヤ人との交流を求めてマッテオ・リッチに会いに来たのである。ユダヤ人が最初に開封にやってきて、すでに500年から600年が過ぎていた。最盛期に開封に3000人も住んでいたユダヤ人も兵火や黄河の氾濫で開封は衰退し、ユダヤ人共同体も当時10家族から12家族まで縮小していた。マッテオ・リッチも当初艾田がキリスト教徒であることを期待していた。しかし、二人は話すうちに、相手が同じ神を信仰する者でないことを悟る。マッテオ・リッチがローマ宛に書いた書簡はヨーロッパのカトリック教社会に驚きを与えた。
 なお、マッテオ・リッチは今、北京市内の墓地に眠っている。
 1642年、黄河の大洪水で住民の溺死者が30万人に達し、ユダヤ人社会も壊滅的な被害を受け、200家族が辛うじて死を免れた。
 1704年、イエズス会宣教師ジャン・パウル・ゴザニが開封ユダヤ人共同体を訪問し、イエズス会本部宛に調査結果を報告すると同時に、1489年建造された石碑の拓本もローマに送った。ゴザニは当時開封には7家族しか残っていないと書いている。さらに、彼は中国に最初に姿を現したユダヤ人は後漢の明帝(めいてい)の時代であったと開封のユダヤ人は信じていると報告している。明帝の死亡が紀元75年、エルサレム第二神殿崩壊によるユダヤ人離散が紀元70年であるので、時代がぴったり合うが、証拠はない。仮にこれが事実であれば、ユダヤ人貿易商人を通じてヨーロッパと中国は相当早くから交易を行っていたことになる。
 1724年、清の雍正帝(ようせいてい)がキリスト教禁止令を出し、中国からの宣教師の追放を断行し、開封のユダヤ人も外部のユダヤ人世界から孤立した。
 1849年、黄河の氾濫により、開封のユダヤ人社会が壊滅的な被害を受ける。
 1850年、太平天国の乱が起こり、太平軍が開封を通過した1857年、ユダヤ人も多数の住民とともに他の地方に離散する。
 1914年、開封のユダヤ人共同体がシナゴーグ跡地の所有権をカナダの英国系聖公会に売却する。
 1938年、日本軍が開封に進駐し爆撃し、英国系聖公会のカテドラルは全壊するが、石碑は奇跡的に難をのがれた。日本軍は罪なことをしたものだ。

 現在、当時のユダヤ人街は「南教経胡同(なんきょうけいこどう、聖典を教える横丁)」という小路の名称に遺されているだけで、ユダヤ人と称する人はほとんどいなくなっている。また、シナゴーグ内にあったと思われる井戸が第四人民病院の裏に残されているという。1489年建造され、字がすべて磨耗した石碑は開封博物館に保管されているらしい。さらに、開封ユダヤ人の子孫と自認する石磊(せきらい)という中国人がユダヤ教徒として認定され、イスラエル国籍を取得し、現在開封で旅行ガイドとして働いているとも聞いた。世界からやってくるユダヤ人の案内役をするためである。
 南教経胡同、古井戸、石碑、石磊。この4つを探し出すために、筆者は開封に旅する計画をたて、北京から開封行きの夜行列車の切符を事前に購入した。中国の国内旅行は何が起こるか分からない。事前に調べていても、現地では話が異なることが多い。3以上に会えれば成功と言える旅であると考えた。
まず、石磊(せきらい)が勤めているという開封の旅行会社に電話した。
「石磊は正式のガイドではありません。必要な時に説明を依頼することはありますが。最近、あまり関係していませんので、電話番号も分かりません」
 先方はそう言ったが、会いたいので再度電話番号を調べてくれないかと依頼した。30分後かかってきた電話に飛びついたが、やはり連絡先が分からないとのことであった。
何か手がかりはないものかと、小岸昭著『中国・開封のユダヤ人』を読み返すと、ユダヤ人末裔の石磊と同姓同名の日本語のできる石磊に会っていることが分かった。こちらの石磊は鄭州の旅行会社で日本人相手のガイドをしているらしい。早速電話、旅行会社に電話したが、そのような者は現在働いていないし、消息も分からないという。ガイドの仕事は引っこ抜きが激しく、流動的である。少しでも条件がいい会社から声をかけられると、すぐに移ってしまう。これでユダヤ教徒の石磊に会う道は閉ざされた。70万都市の開封でどうやって彼を探し出せるのか。もしかしたら、何かの都合で石磊はもう中国には住んでいないのかもしれない。
 重い足取りのまま、筆者は午後9時50発の夜行列車の一等車両に乗り込んだ。先週末の吉林省の集安(しゅうあん、高句麗の世界文化遺産の街)の旅の疲れも癒されていない。
 コンパートメント内の男と視線が合うと、話しかけてきた。
「韓国人か?」
 車掌が身分証明書の提示を求めに来た時、筆者がパスポートを出すのを見ていたのであろう。外国人と思ったようだ。ベッドに入る前の30分と翌日の開封駅に着くまでの30分を合わせて1時間、中国語と英語とタイ語の三ヶ国語を使ってその男と会話した。彼はオーストラリアとタイに仕事で住んでいたことがあるという。また、偶然にも我々は生まれた年が同じであった。
 彼の話の内容の概要は次のとおりである。
「韓国人は日本製品のコピーばかりしているが、日本人はどう思っているのか。自分は大阪と東京に行ったことがある。富士山はとても綺麗だった。
 現在、政府系のモバイル通信会社で、第三世代のシステムの導入のための設計を行っている。大変忙しいが、モバイルは中国の成長産業のひとつなので結構儲かっている。北京から鄭州まで「和諧号(中国の新幹線)」を使えば、5時間で着くが、時間がもったいないのでこの夜行列車に乗った。部下の数は100人を超える。毎日起案文にサインする仕事が多い。鄭州には母親に会うためと仕事のために行く。鄭州にも支所がある。
 タイ人は仕事を急かされるのが嫌いなようで、日中韓の三ヶ国の文化と違っていると感じた。バンコクの日本料理は安くて美味しいが、北京は高くてまずい。
 小さい頃、陝西省の山奥に住んでいて、とても貧しかった、電気は1日2時間しか使えなかった。
開封を見学したあとで、鄭州に来ないか。会社のクルマをあなたの観光のために提供するよ」
 我々は別れ際に名刺を交換した。
「家族名はテラオカの方か?」
「そうだ。カラオケと覚えておくといい」
 彼は笑った。機会があったら、北京で食事しようと言いあって別れた。筆者は先に開封で下車した。
 列車が少し遅れて午前8時前に開封駅に着くと、開封市内の地図と帰りの列車の切符を購入し、タクシーでホテルに向かった。運転手は、
「そのホテルは市の中心から離れていて場所が悪い」
 とぶつぶつ言っていたが、無視した。
 チェックイン後、部屋でシャワーを浴びて、すぐに出かけることにした。
 開封博物館は無料開放中だった。いやな予感がした。鑑賞すべき価値の展示品が少ないのではないか。急ぎ足で入館し、一階のホール中央にある館内の案内図を見た。四階にあるはずの“ユダヤ歴史文化陳列室”がない。そもそも四階が表示されていない。これはいったいどういうことなのであろうか。筆者はだめだったと諦めかけた。
 館内の入口が資料の売店になっているので、まず男女二人の服務員に訊いてみることにした。
「開封にやって来たユダヤ人の資料はないか?」
筆者は祈るような気持ちで、男に訊いた。すると、彼はすぐに本棚から一冊の中国語の本を取り出し、ページをめくった。彼が開いたページには、「開封ユダヤ教シナゴーグの考述」のタイトルの文章が掲載されていた。
「シナゴーグの石碑の拓本はないか?」
「ない」
 そっけない返事が女の服務員から返ってきた。
「この博物館にユダヤ教歴史文化陳列室があると聞いて、やって来たのだが・・・」
 筆者はすがるような気持ちで女に訊いた。すると、
「有料になっている」
 彼女は申し訳なさそうに、小声で言った。
「見られるのだな。いくらだ」
 筆者は彼女の三倍くらいの声で訊いた。
「50元」
「払うよ」
 と言うやいなや、100元札を財布から出した。
 男の服務員が管理人を呼んできて、三人で階段を上がっていった。三階まで来ると、管理人が鍵で木製のドアを開けた。四階に上がる階段が目に入った。階段を登ると、途中、鉄格子のドアがあり、管理人が別の鍵を取り出して開けた。
 四階まで来ると、入口に“ユダヤ教歴史文化陳列室”と書かれている。ここだ。
部屋に入ると、石碑二つがガラスケースに入れられているのが目に飛び込んできた。開封のユダヤ人は記念に石碑二つを建造したとされている。1489年に建造された石碑は無残にも風化で表面がすべて剥がれ落ちていて、まったく文字が残されていない。1512年の石碑は下の五分の一に漢字が残されているが、上部は同様に文字が落ちていた。そしてなんと、二つの石碑は背中で糊付けされたように重ねられ、あたかもひとつの石碑の表と裏になっている。実際は、両面とも表であるが。
 1489年の石碑の最初は、「それイスラエルの立教の祖師アブラハムは、すなわち盤古アダム十九代目の孫である。天地開闢以来、祖師は代々伝統を伝授して、形像をつくらず、鬼神におもねらず、邪教を信じることがなかった」で始まり、宋にやってきて皇帝に面会したこと、定住を許されたこと、シナゴーグを建立したこと、子孫が中国社会で活躍したことなど彼らの歴史が記されている。そして最後は、「聖なる天子の万年にまでいのち長く、皇土の強固ならんことを祈り、天長地久、雨風順調にして、ともに太平の福を受けんことを願う。これを金石に刻み、よって永久に伝えんとする」で終わっている。
 部屋の壁にはそれらの石碑の拓本が掲げられていた。文字は美しい漢字で書かれていた。開封に逃れてきてから500年が経過している。ヘブライ語を書ける人もいなくなっていたと推察される。清の名君の乾隆帝がユダヤ人を偲んで作らせたという石碑もあった。さらに、1722年、開封を訪れたイエズス会宣教師が書いた当時のシナゴーグの外形図と内部のスケッチも壁に掲げてあった。ユダヤ教で神聖とされるモーゼの椅子もきちんと書かれている。18世紀までシナゴーグは健在だったのである。
 儀式の際、手を洗ったと思われる大きな青銅の器も展示されている。
 石磊(せきらい)のことを突然思い出した。この男の服務員は何か知っているかも知れない。
「石磊を知っているか?」
「会ったことはある。ガイドをやっている。近くに旅行会社があるから、そこで訊くといい」
 彼は答えた。
「先日電話したが、もう辞めていて連絡がとれないとのことだった」
 筆者少しがっかりして言った。
「彼はイスラエルの国籍を取得し、ユダヤ教徒になっているが、彼が開封ユダヤ教徒の末裔という証拠がある訳ではない」
 服務員の発言はもっともだった。石磊は小さい頃から、母親にユダヤ教徒の子孫と言われて育っていた。本当のユダヤ教徒の血を引くかどうかの真偽はともかくとして、彼の心境を訊いてみたかった。
 服務員は筆者の職業をしつこく尋ねてきた。
「自然科学の日中交流の推進の仕事をしているが、歴史学者ではない。だが、中国の歴史に興味がある。ユダヤ人はヨーロッパで迫害されたが、1000年前の中国で暖かく迎え入れられ、定住も信仰も許された。古代中国人は非常に寛大だった。それを書いてネットに載せようと思っている」
 筆者がそう述べると、彼は安心したような表情を浮かべた。この陳列室の存在はユダヤ人かユダヤ人研究の学者以外には知られていないはずだから、彼の疑問は当然だった。彼によると、世界各地のユダヤ教徒が聞きつけて見学にやってくるという。予想はしていたが、写真撮影は一切許されなかった。
 博物館を出ると、三輪車の運転手が待ってましたとばかりに声をかけてきた。60歳過ぎの日焼けした男だった。
「どこへ行くのか」
「第四人民病院」
「その病院は合併して、名前が変わった。今は中医病院だ」
「そこまでいくらだ?」
 筆者は訊いた。
「6元だ」
「5元にまけてくれ」
「乗れ」
 男は言った。
「どこから来た?」
「東京だ」
「ここも東京だ」
 運転手は応えた。
東京は日本の首都であり、北宋の首都でもあった。名君の趙匡胤(ちょうきょういん)が宋(のちに北宋と呼ばれるようになる)を建て、その都を東京開封府と称したのだ。北宋の東京は日本語ではトウケイと発音されている。日本の東京との混同を避けるためであろうか。だが、中国語の二つの東京の発音は同じである。
「私は東京からやってきて、東京に到着した」
 と筆者が言うと、彼は笑った。かわいい笑顔だった。
「俺たちは同じアジア人さ」
 運転手が言った。
 三輪車といっても、電動自転車の後部に二人がけの座席を取りつけた程度のものだった。時間は多めにかかるが、市内の様子を眺めながら移動しようと思った。30分して目的地につくと、筆者が意地悪く、5元札と1元札の2枚を手の上に広げてみせた。彼はまず5元札をとり、そして恥ずかしそうに1元札をとった。
「遠かったからな」
 彼は言い訳しながらも、うれしそうだった。
 中医院の門を入り、左右に診察棟と入院棟が建つ中庭にでた。古井戸はシナゴーグのボイラー室のなかにあるはずである。『中国・開封ユダヤ人』の本を取り出して、場所を確認しようとしていると、近くにいた中国人が近づいてきた。中国で相手から話しかけられるのは珍しい。困ったような顔をしていたのであろう。
「ボイラー室を探している」
 筆者は言った。彼は何も言わず、奥の方を指差した。そこに行くと、病院の裏庭で、作業室やボイラー室が並んでいる。筆者は制服を着た守衛を見つけると、素直に訊いてみた。
「私は東京から来た日本人だ。ユダヤ人の古井戸はどこにあるのか?」
 彼は慣れた様子で、ひとつの建物を指した。筆者はなかに入った。床は新しくコンクリートが打たれていた。古井戸を探してみるが見つからない。筆者は外に出た。
 すると、ひとりの作業員がいたので、同じ質問をした。彼は着いて来いというしぐさをし、筆者は彼に従った。再び建物のなかに入ると、男は中央の四角い鉄板を指し、
「この下に古井戸がある。今は使っていない」
 と言った。筆者は今、このような状態になっているのかと驚いた。
 彼は筆者をユダヤ教徒と思ったらしく、
「井戸に水はない。この部屋は重要な場所だ」
 彼は古井戸の保存にあまり手をかけられないと言いたげだった。
「鉄板を開けてもいいか?」と訊くと、「いいよ」と言って、その作業員は去っていった。
 筆者鉄板を開けた。なかは丸い古井戸であるらしいが、暗くて底が見えない。デジカメで写真を撮った。フラッシュが光った。撮った画像を見ると、1メートル下に水面が光って映っていた。まだ、水があるのだ。ユダヤ人の信仰の深さが水を涸らせていないのだと思った。12世紀に開封最初のシナゴーグが建立されて以来、敬虔なユダヤ人たちがこの井戸水で身体を清めてきたのである。
 このボイラー室の裏のレンガの建物は取り壊し作業の最中だった。作業員たちの叫ぶ声が聞こえ、そして壁が崩れる音が聞こえた。筆者は鉄板をもとに戻し、その場を去った。
シナゴーグが洪水で壊されたあと、跡地はキリスト教徒に売られ、その聖堂は日本軍に爆撃された。その後、病院が建てられたが、中国人はこの古井戸を取り壊さなかった。彼らもこれは重要なものと分かっていたのである。古井戸が残される限り、ユダヤ人の中国人に対する感謝の気持ちは続くに違いない。筆者はそう確信した。
病院の出入口に戻ると、守衛に“南教経胡同”の場所を訊いた。南教経胡同はかつてユダヤ教徒が住んでいた集落の小路である。
「すぐ近くだ。そこを左に曲がった小路だ」
 守衛は親切に教えてくれた。
 実際、そこから20メートル足らずの曲がり角が南教経胡同の入口だった。近くでたむろしている老人にここが南教経胡同かと確認した。彼は何も言わず前方を指差した。金メッキされた金属板に、中国語と英語おそらくヘブライ語で「開封ユダヤ人居住区(趙宅)」と赤字で書かれていた。趙宅はこの胡同の最後のユダヤ人教徒の趙平宇が住んでいた家だ。今は漢族の未亡人が住んでいるはずである。開封のユダヤ人の末裔は618人とされており、その多くは開封を離れ、新疆、蘭州、西安、成都、南京などに散っている。
 その老人は筆者に質問した。
「お前はカナダ人か?」
 カナダ国籍の東洋系のユダヤ人とでも思われたのであろう。
「いや、日本人だ」と応えると、近くの老人たちが口々に「日本人だ」という声が聞こえてきた。
 筆者は胡同のなかを歩いて進んだ。すぐに大通りの喧騒が消えた。静かな小路である。奥行き100メートルくらいのところに、趙宅があった。先ほど探し当てた古井戸のあったボイラー室と丁度接している。家の二階には漢字の看板が誇らしげに掲げられていた。「ユダヤ教シナゴーグ跡」と記されていた。筆者はその場を静かに離れた。表通りに戻った。先ほど会った老人に会釈した。
 表道路を渡ると、博物館のような建物が目についた。入口まで行くと、なんとそこは、劉少奇が文革時代に四人組の一派に迫害されて殺された場所であった。彼の病室や遺体放置の場所が当時のまま保存されている。火葬申請書には偽名でかつ年齢も31歳と記されている。証拠隠滅のために、劉少奇はすぐに灰にされたのである。革命に捧げた71歳の人生であった。
 筆者は黄河が見たくなった。いくたびも氾濫し、開封の街とユダヤ人社会に壊滅的な被害をもたらしてきた河である。タクシーを拾い黄河に向かった。市内の20キロ北を西から東へと流れている。運転手が「これが大堤防だ」と言ってから、1キロ先に黄河の岸にたどり着いた。
 筆者はクルマから降りた。黄色い水がゆっくりと流れている。対岸は遠くてよく分からない。数名の釣人が釣り糸を垂らしている。のどかである。大堤防と黄河の間には、小麦が生い茂っていた。もうすぐ収穫が終わると、次に稲作を行うという。1997年の大洪水の時には、濁流が大堤防まで押し寄せてきたと運転手が説明する。黄河の川底は開封市より高いと聞いていたが、それは確認できなかった。だが、この河の濁流がユダヤ人社会を直撃し、彼らは再び離散していく運命にあった。
 石磊には会えなかったが、石碑、古井戸、胡同の三つは確認できた。それでも十分意義のある旅であった。

 ユダヤ人はキリスト教徒とは異なり、多民族への伝道という使命をわが身に課することなく、迫害の嵐が吹き荒れる離散地で、極めて不安定な状況に置かれながらも、先祖からの言葉と信仰を胸に抱いて生きてきた。そもそも、イエスを殺害したのはユダヤ人だという理由で、ユダヤ人は新興宗教のキリスト教徒から長期にわたり迫害を受けることになる。母親は我が子に先祖の教えを厳しく教え込んできた。そうした精神生活の持続性が、思想や芸術、あるいは科学や経済の分野で彼らは目覚しい業績を残してきた。ノーベル賞受賞者に占めるユダヤ人の数はかなりの数字に上る。
 そういう意味で、ユダヤ人は多民族に嫉妬される運命にあり、ユダヤ人が世界を牛耳っているという神話が生まれてきた。世界中のユダヤ人の総人口は約1400万人で、イスラエル及び米国にそれぞれ530万人が住み、残りのユダヤ人は世界各地で居住している。ユダヤ人は長期間の迫害や苦難に耐え、消滅することなく生存してきた偉大な民族である。
 一方、北宋の時代、ユダヤ人を特別扱いせずに、他の民族と同様に扱ってきた漢民族の寛容さも評価されるべきと思う。「一視同仁」政策は異民族も同等に待遇しようという中国の伝統的な政策である。昨今、中国の周辺地域で起こっている少数民族に対する圧制の報道に接すると、過去にユダヤ人に対して行った漢民族の寛容な措置が忘れられてしまったのではないかと残念に思える。中華民族は懐が深い民族であるはずだ。知られざる開封のユダヤ人の歴史を学んでもらいたいものである。



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この記事へのコメント

通りすがり
2017年12月28日 10:43
貴方は支那大陸の歴史を少し勉強した方が良いですね。
昔の漢族と今の中国人は違いますよ…そもそも開封にユダヤ人が移り住んだ時代の頃に中国なんて国は在りません
でした。王朝が変わる度に漢族ではない異民族(突厥族、鮮卑族、モンゴル、女真族…その他)が代わる代わる支配者となっただけです。漢族の寛容さと言いますが、そもそもアジアでは反ユダヤ主義なんて無かったし特に多神教の地では、インドやヒマラヤ辺りでも何処でもユダヤ迫害なんて起きませんでしたね。支那だけではないですよ。
中華民族?何ですか中華民族って?そんなもの無いですよ。

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