近代まで世界一だった中国の科学技術

 天安門の前を東西に走る長安街が旧城壁と交差するところに、かつて建国門があった。その建国門の西南地点に「北京古代気象観測所」がある。
 冬の寒い週末の早朝、筆者はこの観測所に地下鉄ででかけた。15年ほど前に行った時、入場費は有料であったが、無料開放されていた。他に見学客はいない。お土産物やも閉まったままだ。
 この観測所は西暦1442年に設立され、気象観測、天文観測などを行っており、当時使用していた天体儀や日時計などの観測機器が復元されて設置されている。さらに、併設している博物館には、古代中国の天文学の業績が並べられている。
 自然現象のなかで日食は古代の人々を最も恐れさせたものであったと思われる。殷代に占いに使用された甲骨文字に日食の記録が残されている。紀元前12世紀から紀元前14世紀も前のことであった。
 紀元前140年頃に編集された『淮南子(えなんじ)』には太陽の黒点に関する描写が残されている。中国人はその前の紀元前4世紀には、黒点は太陽面の現象であることを既に知っていたと推定されているが、西洋人は16世紀まで他の天体が光を遮っていると考えていた。
 西洋でハレー彗星観察されたのは11世紀であるが、中国では紀元66年に観測された彗星の形状が残されている。長沙で出土した馬王堆(ばおうたい)三号漢墓に描写されている。
中国人は6世紀以前に、太陽風の存在を仮定し、そのために彗星の尾が太陽と反対の方角に流れると仮定していた。
 フランシス・ベーコンは三つの発明、紙と印刷術、火薬、羅針盤をとりあげ、それらがどんな宗教的信念や占星術の感化力や征服者の偉業よりも大きな力として、世界を完全に近代へ転換させ、古代・中世から切り離したと考えた。だが、彼はこれら全てが中国人の手による発明と知らずに死んだ。中国は紙と印刷術、火薬、羅針盤の三大発明の発祥地として有名であるが、中国人が発見・発明した科学技術はそれに留まるものではない。
 鉄の製造には鉄を叩いてつくる鍛鉄法と溶かした鉄を流し込んでつくる鋳鉄法がある。後者の方が技術的に難しいのは、高温にしなければ鉄が溶けないためである。中国人は、鉄混合物にリンを6%まで加えると、融点が通常の千百度から九百五十度に下がることを知っていた。この技術が中国で普及するのは6世紀である。一方、西洋で鋳鉄が広く使用されるようになるのは、1380年以降である。
 漆(うるし)は柔軟なワニスだが、保存力、強度及び耐久性が極めて強い。いわば、最古のプラスチックといえる。漆が使用されているのが発見されたのは、殷代の皇后の棺の漆塗りである。漆は少なくとも、なんと紀元前13世紀に中国で使用されていたのだ。
 人類最初の全身麻酔による手術は後漢時代に中国で実現されており、西洋よりも1600年も早い。
 魏晋時代の祖沖之(そちゅうゆき)は、世界で初めて円周率の数値を小数点以下7桁まで計算した人物で、この記録は約千年後アラビアの数学者に破られたのであった。
 中国が西洋の発明・発見より先んじていたものはもっとある。
 回転運動と往復運動の相互転換の方法、植物地理学と土壌学の創始、皮膚=内臓反射作用、種痘の発見、近代農業、十進法、紙幣、傘、多段ロケットの原型、銃、水雷、毒ガス、熱気球、強い醸造酒、将棋などだ。
さらに、グーテンベルグは活版印刷術を発明しなかったし、ハーヴェイは体内の血液循環を発見しなかったし、ニュートンは運動の第一法則を最初に発見したひとではなかったということになる。これらの偉業を最初に達成したひとは、中国人である。
 産業革命の土台となった西洋の農業革命は、発明や工夫が中国からもたらされた結果可能になった。畝による作物の育成、鍬を使う除草、種まき機、鉄製の犂(すき)、効率的な馬具は中国から西洋に伝えられたのだった。
自国を賛美する傾向のある中国の歴史教科書の中で、科学技術の業績については、信用がおけるのである。

 2005年3月24日、ひとりの偉大な学者が94歳の生涯を終えた。英国ケンブリッジ大学のジョゼフ・ニーダム名誉博士である。ニーダム博士は、生涯をかけて、名著『中国の科学と文明』を著し、西洋知識人に大きな衝撃を与えた。筆者も30年前、大学生であった時、彼の著作を読み、科学は西洋発祥と教えられていた頭脳に大きな刺激を受けたことを思い出す。中国でも独自に科学技術が発展していたのである。
 さらに、彼はユネスコの創設を手助けして、自然科学部を組織したひとでもある。UNESCOのSは科学の意味であるが、ニーダム博士の献身的努力がなければ、異なった名前になっていた可能性もある。ニーダム博士は、ケンブリッジ大学に入学後、生化学と発生学の接点を専門としていたが、同時に科学史にも興味を抱いていた。
 ニーダム博士の研究室にいた中国人科学者と交流するうちに、中国が歴史上達成してきた科学技術上の偉業に注目するようになった。その後、1942年、英国王立協会派遣の使節として、重慶にあった英国大使館の科学顧問として第二次世界大戦が終了するまで中国に滞在した。そして、帰国後も、中国の科学史の調査研究を継続し、隠された歴史が明らかとなっていった。
 『中国の科学と文明』は、西洋に蹂躙され、自信を喪失していた中国人が誇りを回復する機会を与えた。そのため、ニーダム博士は中国のリーダーから非常に高く評価されている。
 ニーダム博士は古代及び中世の中国人の並外れた創意工夫と自然に対する洞察力に敬意を表しつつ、なぜ現在中国は遅れた国になってしまったのかと疑問を呈している。そして、自らの問いに対する回答は、中国の官僚組織はその初期では科学の発展を大いに援助したが、後期になると、官僚組織は科学がさらに発展するのを強力に押さえ込み、飛躍的な進歩を阻んだためとしている。
 また、ドイツ帝国の宰相であったビスマルクは、日本及び中国からやってきた留学生の行動を評価し、「日本人は機械や大砲の原理まで理解し、もっと優れたものを開発しようとするが、中国人は廉価なものを購入するだけの態度に終わっている」と述べている。祖国の近代化に向けた留学生の意識の差が、その後の両国の運命を大きく変えることになった。近代以前の科学技術で世界一であった中国は、なぜ自ら創意工夫をしなくなったのであろうか。
ニーダム博士は官僚組織に中国科学技術の発展と停滞の原因を求めているが、筆者は官僚組織も含めた政治体制及びそれを支えてきた思想が原因であると考えている。つまり、皇帝に全ての権力が集中する皇帝制度及び人々の行動規範となったイデオロギーとしての儒教が元凶であると思う。自由な発想や創意工夫を重んずる気風がイノベーションには不可欠である。
 政治的及び経済的に台頭する中国が21世紀の科学技術強国になれるかどうかは、まさに皇帝制度と類似の共産主義体制及び支配の道具に堕落した儒教の克服にかかっている。
 「中華の復興」は中国の新文明の興隆であり、それはイノベーションの成否に依存する。コピー産業の体質を変えられなければ、世界の人々の尊敬を得ることはできず、成長も早晩行き詰まることになろう。
 中国のリーダー達と科学者の葛藤は当分続くに違いない。


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