胃ろうは延命措置か
80歳を超える親近者の話である。
インフルエンザに感染し、病院に運び込まれた。心配した私が駆けつけていくと、医者は言った。30代前半の駆け出しのような女医だった。
「インフルエンザに感染し食べたものを間違って肺に飲み込んで、誤嚥(えん)性肺炎にも罹った。さらに、胃炎も患っている。高熱も続いている。危険な状況に陥る畏れもあるので、万が一に備えて覚悟は決めておいて欲しい」
もう80歳を超えているから、このような状況がいつ来てもおかしくないと思っていたが、実際にそれが目の前で起こるとうろたえてしまった。そ、そうですか。
「ここ数日が勝負です。医者として全力を尽くします。ところで、万一の場合に備えて事前にご相談しておきたいことがあります」
あまりいい気持ちがしないが、なんだろうか。
「それは、緊急時の延命措置をどこまで希望されるかということです」
はぁ。
「呼吸不全に陥ったときに人工呼吸器をつけるかということと、心臓蘇生マッサージを受けるかという選択です。人工呼吸器をつけると、死ぬまでそれを外すことはできません。人によっては何年も生きる方もいらっしゃいます。心臓マッサージは一時的に蘇生させられるかもしれませんが、目の前で大きな力で身体を押さえますので強い恐怖感を覚えますし、肋骨の骨も折れますので強い痛みもあります。これらの延命措置について、ご家族でよく相談していただき一両日中に返事をいただきたいのですが・・・・・」
私の意志は決まっていたが、すぐに弟と電話で相談し、両方の延命装置は施さないとすぐに決めて、その日の午後に若い女医に伝えた。
生に執着しない人なので、助かるかどうかは半々と思っていたが、体温も下がり、病気に打ち勝って一命を取り留めた。私には奇蹟的なように思えた。栄養補給は鼻から垂らされたチューブを通して流動食が与えられた。
また、同じ医者から相談があった。鼻からの流動食ではその病院を退院したあとに受け入れてくれるところが少ないので、胃ろうにしたらどうかというのだった。ほんの20分の簡単な手術で終わるとまで言われた。
再び口から食事をとれるようになりますかという質問に対しては、リハビリによって回復する場合があるという返事が返ってきた。可能性はゼロではないという意味に解釈した。でも心の底で期待した。
数日後の手術は成功し、しばらくして退院した。
胃ろうという言葉ははじめて聞くものではなかったが、その後ネットで調べたり、関連の本を読むようになり、事態の深刻さに気付いた。
日本では胃ろうをやっているのは40万人いるが、それを延命措置と考える風潮はまだ強くない。女医も人工呼吸器と心臓再生マッサージは延命措置だと思っていたから、家族の私に選択を迫ったのだが、胃ろうは患者が自ら食事をとれないのであれば医者として当然の措置と思っていたのだった。でも、胃ろうをはじめると、自ら食事をとることができず、そのまま何年も生きることになることもある。生活の質から考えると、それが本人にとって幸福かどうかという問題もある。
西欧のある国では、食事を自らとれなくなったら、胃ろうなどを施さずに自然のままにしておくそうだ。それが人間として尊厳のあるやりかただと判断している。日本でもほとんどの人が家で死んでいたときには、胃ろうなどの方法はなく、自然に死んでいたのだ。食事がとれなくなると、餓死と脱水で7~10日でやすらかに死ぬ。末期がんであっても本来安らかに死ぬだが、病院で治療という名の延命措置をやるので、苦しみながら死んでいくことが多い。だから、胃ろうは身体が要求しない過剰な栄養を与えるので、餓死も脱水にもなることがなく、生きながらえさせられることになる。
私の親近者の場合は胃ろう手術を行ったのは間違っていたとは思わない。意思疎通がある程度はできたのだから。しかし、このままの状態を続けることを本人が望んでいるかを確認するのは難しい。認知症を患っているから、深刻な状況の判断の意思疎通がうまくいかない。実質的に、胃ろうを止めるという意思表示をすることは困難なのだ。
私と家内は将来自分たちの身に起こったら、延命措置はやらないようにしようと決めている。餓死と脱水という意識が夢うつつの状態での自然死を希望するからである。そのを望むのであれば、決して救急車に乗ってはいけないことになる。乗れば、延命措置が使命と信じている現代医学システムの中に組み込まれ、決して楽に死なせてくれないからだ。医学は算術でもなかろうが、延命するほど儲かる仕組みになっている。医者は患者が苦しかろうが、患者の延命に命を懸ける。
もう一度言おう。自然死は楽で怖くはない。楽な自然死のためには、ゆめゆめ救急車に乗らないことである。その勇気がなければ、拷問のような死が待ち受けているかもしれないことを知っておいた方がよかろう。(2012年4月19日、寺岡伸章)
インフルエンザに感染し、病院に運び込まれた。心配した私が駆けつけていくと、医者は言った。30代前半の駆け出しのような女医だった。
「インフルエンザに感染し食べたものを間違って肺に飲み込んで、誤嚥(えん)性肺炎にも罹った。さらに、胃炎も患っている。高熱も続いている。危険な状況に陥る畏れもあるので、万が一に備えて覚悟は決めておいて欲しい」
もう80歳を超えているから、このような状況がいつ来てもおかしくないと思っていたが、実際にそれが目の前で起こるとうろたえてしまった。そ、そうですか。
「ここ数日が勝負です。医者として全力を尽くします。ところで、万一の場合に備えて事前にご相談しておきたいことがあります」
あまりいい気持ちがしないが、なんだろうか。
「それは、緊急時の延命措置をどこまで希望されるかということです」
はぁ。
「呼吸不全に陥ったときに人工呼吸器をつけるかということと、心臓蘇生マッサージを受けるかという選択です。人工呼吸器をつけると、死ぬまでそれを外すことはできません。人によっては何年も生きる方もいらっしゃいます。心臓マッサージは一時的に蘇生させられるかもしれませんが、目の前で大きな力で身体を押さえますので強い恐怖感を覚えますし、肋骨の骨も折れますので強い痛みもあります。これらの延命措置について、ご家族でよく相談していただき一両日中に返事をいただきたいのですが・・・・・」
私の意志は決まっていたが、すぐに弟と電話で相談し、両方の延命装置は施さないとすぐに決めて、その日の午後に若い女医に伝えた。
生に執着しない人なので、助かるかどうかは半々と思っていたが、体温も下がり、病気に打ち勝って一命を取り留めた。私には奇蹟的なように思えた。栄養補給は鼻から垂らされたチューブを通して流動食が与えられた。
また、同じ医者から相談があった。鼻からの流動食ではその病院を退院したあとに受け入れてくれるところが少ないので、胃ろうにしたらどうかというのだった。ほんの20分の簡単な手術で終わるとまで言われた。
再び口から食事をとれるようになりますかという質問に対しては、リハビリによって回復する場合があるという返事が返ってきた。可能性はゼロではないという意味に解釈した。でも心の底で期待した。
数日後の手術は成功し、しばらくして退院した。
胃ろうという言葉ははじめて聞くものではなかったが、その後ネットで調べたり、関連の本を読むようになり、事態の深刻さに気付いた。
日本では胃ろうをやっているのは40万人いるが、それを延命措置と考える風潮はまだ強くない。女医も人工呼吸器と心臓再生マッサージは延命措置だと思っていたから、家族の私に選択を迫ったのだが、胃ろうは患者が自ら食事をとれないのであれば医者として当然の措置と思っていたのだった。でも、胃ろうをはじめると、自ら食事をとることができず、そのまま何年も生きることになることもある。生活の質から考えると、それが本人にとって幸福かどうかという問題もある。
西欧のある国では、食事を自らとれなくなったら、胃ろうなどを施さずに自然のままにしておくそうだ。それが人間として尊厳のあるやりかただと判断している。日本でもほとんどの人が家で死んでいたときには、胃ろうなどの方法はなく、自然に死んでいたのだ。食事がとれなくなると、餓死と脱水で7~10日でやすらかに死ぬ。末期がんであっても本来安らかに死ぬだが、病院で治療という名の延命措置をやるので、苦しみながら死んでいくことが多い。だから、胃ろうは身体が要求しない過剰な栄養を与えるので、餓死も脱水にもなることがなく、生きながらえさせられることになる。
私の親近者の場合は胃ろう手術を行ったのは間違っていたとは思わない。意思疎通がある程度はできたのだから。しかし、このままの状態を続けることを本人が望んでいるかを確認するのは難しい。認知症を患っているから、深刻な状況の判断の意思疎通がうまくいかない。実質的に、胃ろうを止めるという意思表示をすることは困難なのだ。
私と家内は将来自分たちの身に起こったら、延命措置はやらないようにしようと決めている。餓死と脱水という意識が夢うつつの状態での自然死を希望するからである。そのを望むのであれば、決して救急車に乗ってはいけないことになる。乗れば、延命措置が使命と信じている現代医学システムの中に組み込まれ、決して楽に死なせてくれないからだ。医学は算術でもなかろうが、延命するほど儲かる仕組みになっている。医者は患者が苦しかろうが、患者の延命に命を懸ける。
もう一度言おう。自然死は楽で怖くはない。楽な自然死のためには、ゆめゆめ救急車に乗らないことである。その勇気がなければ、拷問のような死が待ち受けているかもしれないことを知っておいた方がよかろう。(2012年4月19日、寺岡伸章)
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